事例検討会:スーパーバイザー大野裕先生、藤山直樹先生

 ある精神科医の提示した症例報告にスーパーバイザーとして大野先生、藤山先生がコメントするという構成です。

 痛みが強いクライエントについてです。認知療法をすこし四角四面に行うきらいがあるようにも思われました。それとこのようにインテンシブに時間をとって行うという枠組みがどれくらい続けることができるのでしょうか、一時的なものなのでしょうか。またAQというテストで自閉症的傾向がかなり高得点でもありました。もしこの傾向があれば、過去についてこだわった一点には徹底的にこだわりぬいて、心理的な痛みにまで発展しうる、と大枠の理解がほぼ完了してしまいます。この自閉症的傾向の有無についてはまったく議論されませんでした。でも自閉症的という枠組みだけで片づけてしまうと、身もふたもないのです。

 藤山先生は痛みの背景にあるクライエントのこれまでの経緯を見通すことに非常に優れているように思われました。もっとも解釈について押しつけがましいところもあります。それは解釈が正しいか否かといった問題以前のことです。クライエントとの面接(つまり精神分析的セッション)の場面でもこのような傾向が見られれば、知らず知らずに阻害要因として大きな課題になる可能性もあり不安さえ覚えるのです。もちろんはっきり解釈してくれることを好ましく思うクライエントもいるでしょうが。しかし繰り返しになりますが、藤山先生の見通す能力はやはり強く注目すべきところがあります。また藤山先生には口数の多い解釈のし過ぎに対するセンシティビティは十分にあるとは思うのですが。

 大野先生は、やはり認知療法を型どおりに行う傾向になっている点について疑問を投げかけていました。そして藤山先生が言葉多くに発言するのに対して、大野先生は控えめな発言でした。この控えめさが良い時もあります。大野先生はあまり多くを発言しませんでしたが、最後の締めくくりとして「痛みと付き合っていく」ということもテーマにしていくことも大切そうだ、ということでした。これは常識的ともいえる意見ですが、全体をうまくまとめるものでもあります。報告者のドクターも肩の力が少しぬけて楽になるところでしょう。それにこの痛みが本当に心理的なものに由来するのか、未知の疾患による痛みなのか現在のところ不明であるがゆえに、両方を組み入れた折衷案としても「痛みと付き合っていく」ことが穏当な見解だと思われるのです。加えて、痛みが強い時に、心理的なプロセスに目を向けさせようと強要することはたいへんな苦痛に直面化させることになりかねない危険なことであり、傷の上にできた「かさぶた」を引きはがして傷口をむき出しにするようなものです。

 結局、大野先生、藤山先生ともに、このクライエントにたいしては(ざっくりと言ってしまえば)共感が大切かということで一致しているようでした。もっとも一言に「共感」といっても単純なものではなくて、種々のプロセスを経た共感のことでしょうが、そこが謎のところもあります。藤山先生はより深いところのケアも含めた優しめの共感です。報告者のドクターのやっていることは、まずまずよいのではないか、でももっと理解して自覚的に取り組んだらもっと良いでしょうね、というような流れでこの症例検討会が終わりました。