映画『ハムネット』のご紹介

■ 自然に囲まれた市場町と、妻アグネスの神秘的な魅力

 

 映画『ハムネット』は、史実とは必ずしも一致しないのでしょうが、名作と呼ぶにふさわしい物語です。

 舞台となるのは、劇作家シェイクスピアが生まれ育った16世紀イギリスの町、ストラトフォード。豊かな自然に囲まれたこの活気ある市場町を背景に、物語は描かれます。 この作品でまず観客の心を捉えるのは、劇作家シェイクスピアの妻であるアグネスという女性の圧倒的な存在感でしょう。前半には、主人公を遥かに凌ぐかと思われる存在感です。ただ後半には夫であり父親であるシェークスピアの存在感が一気に増します。

 彼女は自然と共に生きる野生的な魅力を持ち、時には周囲から魔女と囁かれるほど不思議な力と個性を持った人物として描かれています。彼女は、一人で自然の中に身を置き、自然の底知れぬ神秘と一つとなることを好むとともに、他者のために生きる強靭なエネルギーも併せ持っていました。

 

■ 若きシェイクスピアの葛藤と、ロンドンへの旅立ち

 

 物語のなかで、対する若きウィリアム・シェイクスピアは、革細工職人の息子として生まれ、当時は語学の教師をしながら、うだつの上がらない日々を送っていました。父親との折り合いは悪く、仕事のできない息子として冷遇されていましたが、その心には詩や演劇への情熱が静かに燃えていました。彼は、アグネスという女性を一眼見ただけで、その人物像を直感で見抜き、やがて二人は結婚しました。それは、彼がいかに本質を見抜く確かな目を持っていたかの証でもありました。ただ、アグネスは人のために生きる人であるのに対して、ウィリアムは自分のために生きる人でもあったというのも対照的であって、それが故に彼の存在感はむしろ薄いのでした。

 やがて三人の子供に恵まれますが、生活は一向に好転しません。アグネスは、このままでは夫ウィリアムが精神的に潰れてしまうことを危惧し、一か八かの賭けとして、彼にロンドンでやり直してみることを勧めました。こうしてウィリアムの単身赴任が始まります。彼はロンドンの演劇界において自らの天職を見出しました。しかし、彼はその仕事に熱中するあまり、ほとんど家を空けるようになっていきました。家庭を守り子供を育てるアグネスは、家族を顧みることが乏しい夫に対して、次第に焦燥感を強く抱くようになります。

 

■ 息子ハムネットの死と、激しい罪悪感

 

 そんな折、一家を最大の悲劇が襲いました。11歳の息子ハムネットが、ペストによって命を落としました。この息子は、母親の他者のために生きるという性格を受け継いでもいるのだと思われるのですが、この息子は、死の淵に立たされた妹を救うべく、死神に連れ去られる妹の身代わりとなる道を選んだのでした。しかし、この少年の他者を思いやる心と自己犠牲の行動は、図らずも父親としてのウィリアムの父親としての至らなさを露呈させることにもなりました。

 ウィリアムは、自分こそが身代わりになるべきではなかったのか、と激しい罪悪感に苛まれるようになります。妻アグネスからも家庭を顧みない彼の責任を厳しく問い詰められました。ウィリアムは逃れようのない苦悩の流れに翻弄されながら、やがて一編の戯曲を書き上げます。それが『ハムレット』でした。この戯曲『ハムレット』は、息子の名である「ハムネット」の名から派生したものだと言われています。

 

■ 悲しみの昇華と復活

 

 息子のハムネットは、純粋無垢なまま自己犠牲として命を落とした少年として描かれています。しかし劇中の主人公ハムレットは、善と悪の両面を併せ持つ、多面的で複雑な大人として描かれています。人は大人になれば誰しも複雑な内面を抱えるものです。もっとも、その根底にある本質は変わらないはずです。純粋な子どもであった息子ハムネットは、成長して、多面性と複雑さを持つ青年の主人公ハムレットへと成長したとも言えるでしょう。

 主人公ハムレットが死へ向かっていく過程は、紆余曲折があって、多面的で複雑であり、取り返しのつかないような失敗もしてしまいます。彼は、自らの原因によって苦悩に向き合わされるのでしたが、その本質は変わりないのです。死に向かうまでの過程は、良くも悪くも、主人公の生き様そのものだったのでしょう。罪悪感にまみれ、多くの苦しみや悩み、迷いを抱えながらも、彼は自らの本質を全うしようとしました。しかし、結果的には全うしきれなかったのかもしれません。そのどちらとも言えません。「生きるべきか死ぬべきか」、しかし彼は生きる方向を明確に選んでいました。

 主人公ハムレットは、苦しむ作家自身と、死んだ息子ハムネットが融合した人物でした。主人公ハムレットが苦悩と向き合う生き様が、人々に深い共感を与え、後世にまで語り継がれる生命を持つことになります。そのような意味で、息子ハムネットは作家と共に甦り、復活を遂げたのでしょう。